ノルマンディー地方を訪ねて- フランスで一番小さな河のある村 ヴル・レ・ローズ Veules les Roses
今日は、フランス語ツアーガイドのTokioです。
今回は、2月12日に訪れたノルマンディー地方の小さな村をご紹介します。
フランスで最も美しい村の一つに選ばれているヴル・レ・ローズ Veules les Roses。
ディエップ Dieppeから車で40分程度の、アルバトル海岸 côte d'Albâtreに面した人口5百人くらいの小さな村。
この村にはフランスで一番小さな河 fleuve があるらしいんですが。その河はヴル河 la Veules と呼ばれていて村の名前の一部になってます。
河口付近の風景です。
当日は天気が目まぐるしく変わり、黒い雨雲と、青い空が、入れ替わり立ち代わり。
見える風景の色も刻々と変わっていきます。
ノルマンディーの海辺の風景を印象派の画家たちが好んで描いていた理由がなんとなく分かるような気になります。
フランスで一番小さな河、ヴル河 la Veules の源流へ
フランスで一番小さな河の長さは、村のパネルによると、1100メートル。
その河は村の中を流れていて、河沿いには魅力的な風景がいっぱい。
大河のイメージからほど遠い、町を流れる用水路のような感じです。
家の壁に使われている白っぽいレンガはシレックス Silex と呼ばれる火打石。この地方でよく取れるようで、ディエップの町やその周辺の村でもよく見かけました。
少し河を遡っていくと古い水車が。18世紀に作られたといわれる水車。フランス革命までここで油を作っていたようです。19世紀から小麦を粉にしていたようです。ヴル河沿いにはかつて11の水車があって、そのおかげでこの村は豊かになったようです。
河沿いにはシャン・ゼリゼ通りもあります。
ただし、アヴェニューavenue ではなくて、ここでは シュマン cheminとなってます。
さらに河をたどって行くと、けっこう古そうな家が。
独特の形をした屋根。屋根裏部屋、あるいは二階 (?) に光を取り入れるための窓の部分だけ大きく変形した屋根。なんとも味のある家です。
古い家の前を通り過ぎてほどなく、見えてきたのはクレソン畑のようです。
14世紀の頃からこのヴル河の流れを利用してクレソンが栽培されていたようです。
豊かな水量の澄んだ水のお蔭で、かつてはクレソンがこのヴル河の特産品だったようです。
どことなく日本のわさび園に似てるような気がしますが。
クレソンは有機物を栄養源にして酸素を水に供給するらしく、水を浄化する作用もあるとか。
そしてそのクレソン畑のすぐ近くにヴル河の水源がありました。
この水源から湧き出す澄んだ水が、水路を通ってクレソン畑を潤し、約1000メートル先でドーバー海峡へ流れ出ているんですね。
ヴル河の散策を終えて、村の中心街へ出ると、ヴィクトール・ユゴー通りに出る。
ここがこの村のメイン通りのようだ。
かつてユゴーも何度かこの村に友人を訪ねてきたらしい。
その通りには、こんな建物もあった。
門柱のパネルには、Villa Pierre Corneilleとありました。
ピエール・コルネイユは17世紀の有名な劇作家ですが、これはコルネイユ家が所有していたお屋敷のようです。コルネイユはルーアンで生まれているようですね。
この地方独特の赤レンガとシレックス造りの家が立ち並ぶメイン通りを通り抜けると、すぐそこは海岸。
特に夕陽に染まる海岸線は、印象派の画家の題材にもなったように、見飽きることのない美しさに溢れていました。
それでは、今回はこの辺で。
皆さんも、素晴らしい旅を。Bon Voyage !!!
ノルマンディー地方を訪ねて - 港町ディエップ Dieppe と画家の愛した周辺の村
今日は、フランス語ツアーガイドのTokioです。
今回は、2月12日から13日にかけて訪れたノルマンディー地方のディエップとその周辺の村を紹介します。
港町ディエップDieppe
ディエップはルーアンから車で1時間くらい。電車だと50分くらいのところ。
ドーバー海峡に面した港町です。
この町が最も輝いていたと言われているは20世紀の初頭。当時はフランスでも有数の避暑地だったらしく、ピサロ、モネ、ルノワールなどの著名な印象派の画家やドビッシーなどの音楽家、そしてプルーストなどの作家がやってきたようです。
港の一角にはこんなパネルが。
1902年にピサロが描いたディエップの港の風景。
戦争中の爆撃で多くの著名な海辺の高級ホテルや市街の古い建物が破壊されてしまったため、現在では、切り立った絶壁が延々と連なる素晴らしい海岸線の風景を除いて、当時の面影はあまり残っていなようです。
ちなみに今のディエップの街並みです。
中心街にある商店街。白っぽく見えるシレックス Silex と赤いレンガの建物がこの地方の特徴のようです。
港のにある「漁協」の建物。シレックスとレンガ。
港にはこんなパネルも。
港での釣りは禁止のようです。
ボンスクールのノートル・ダム礼拝堂、Chapelle Notre Dame de Bonsecours
港から見えていた高台の上の教会。ピサロの絵にも描かれてました。
ボンスクールのスクール secoursには「救助」という意味も。
断崖の上に立っている19世紀後半に建てられたこの礼拝堂はまるで灯台のよう。ここは祈りの場所であるとともに、海で亡くなった船乗りたちの供養塔の役割もしているようです。
この日、礼拝堂の中は光で溢れてました。
ステンドグラスから差し込む光が虹のよう。
壁に貼られた多くのパネル。海で亡くなった水夫、漁師に捧げるものでした。
中には、写真や供え物も。
それに混じってこんなパネルもありました。
左のパネルに書かれているのは、1942年ドイツ軍の占領下にあったディエップの海岸でカナダ軍を中心とした連合軍による上陸作戦が行われた際に解放された戦争捕虜の囚人たちからカナダ兵への感謝と追悼のことば。上陸作戦は失敗に終わり、多くの若いカナダ兵が命を落としたようです。
礼拝堂のある絶壁の高台から見渡せるディエップの町と海岸線。
高台の下には、ドーバー海峡を渡って対岸のイギリスのニューヘーブンへ行くフェリーの港も。一日に6便。4時間かかるらしいですが...
モネの描いたプルヴィル・シュル・メール Pourville-sur-Mer
Dieppeの港から県道75号線を西に10分ほど進むと、隣村の海岸出る。
シー川 la Scie と呼ばれる川の河口から付近から見る風景が素晴らしい。
Dieppeのボンスクールのノートル・ダム礼拝堂のある高台から見えていた風景が目の前に広がっている。この辺りの海岸はアルバトル海岸と呼ばれているらしく、この断崖絶壁の海岸線が130km続いているということです。
その河口付近にはこんなパネルが。
1882年にモネが描いたプルヴィル海岸の夕陽。
モネは1882年の2月から4月にかけてこの村に逗留して、絵を描いていたようです。
近くにはもう一つ別のパネルも。
右側の絵もモネ作。やはり1882年に描いた「Vallée de la Scie, シー川渓谷」。
シー川の河口付近から上流を眺めた風景。
実際はこんな感じです。
ゆるやかな起伏を描きながら延々と広がる鮮やかな緑色の風景は、日本では見られない(?)Tokioのお気に入りの風景のひとつです。
大部分が牛の放牧用の農地のようなのですが。ノルマンディーといえばチーズのカモンベールの産地ということで、乳牛の放牧が盛んなのかも。もしかしたら北海道にも同じような風景があるのかも。
シー川の河口から車で5分ほど進むと、モネが通ったといわれるもう一つの村、ヴァルジャンヴィル・シュル・メール Vargenville-sur-Merに。
Monet と Braque のヴァルジャンヴィル・シュル・メール Vargenville-sur-Mer
ヴァルジャンヴィルは人口千人足らずの村。村といっても、緑の多い広々とした敷地にノルマンディーらしい家が建ち、比較的裕福な人たちが暮らす日本の別荘地のような感じの村なのです。
この地方独特の屋根の大きい民家。
敷地が低い土手で仕切られているのが、この村の特徴のようです。海が近いからということらしいですが。
道路もきれいに整備されてます。
村のたばこ屋には新聞や雑誌も。
隣村のプルヴィル Pourville に逗留していたモネも、よくこの村まで来て絵を描いていたようです。モネのほかにも、作家のアンドレ・ブルトンやルイ・アラゴンも一時期この村に逗留して創作にあたっていたようですね。
この村でもう一人忘れてはいけないのは画家のジョルジュ・ブラーク Geroges Braque。村にある海沿いの切り立った断崖の上にブラークの墓がありました。
海を見下ろす断崖の上に立つ聖ヴァレリー教会 Eglise St. Valérie という小さな教会の敷地にある「海の墓地」Cimetière marin 呼ばれている墓地。
教会の入口。12世紀から16世紀にかけてつくられた古い教会のようです。
中に入ると、墓地が。ここが cimetière marin 「海の墓地」と呼ばれるところ。
確かに海を見下ろす高台にあります。
墓地から見える海はこんな感じです。
ブラークBraqueの墓はこれ。
墓標には鳥のモザイク画が。
小さな教会の中はこんな感じです。
中はとてもシンプルです。正面の壁面に見える絵は、ミシェル・シリーMichel Siry という今もこの村に住んでいる画家の作品のようです。
この教会の白い壁にはステンドグラスがありますが、これらはブラークがデザインしたもののようです。
これも。まだ、他にもあります。
一つ変わったデザインのステンドグラスは別の作家の作品ということです。
絵画でノルマンディーといえば印象派を生んだ港町オンフルール Honfleurが有名ですが、ディエップの周辺にも画家と縁の深い村と素晴らしい風景がありました。
それでは、今回はこの辺で。
皆さんも、印象に残る旅を。Bon Voyage !!!
ノルマンディー地方を訪ねて - 聖ジャンヌ・ダルクを祭る町ルーアンRouen
今日は、フランス語ツアーガイドのTokioです。
今回は、2月11日に訪れたノルマンディー地方の町ルーアンRouenを少し紹介します。
ノルマンディー地方といっても、西側にある観光客に人気のモン・サンミシェルや、雨傘でおなじみのシェルブールから、東側にあるディエップの町までかなり広範囲。面積は東海地方とほぼ同じくらい。
ルーアン Rouen はノルマンディーの東側の玄関口に当たるような歴史のある古い町でした。「ルーアンの大聖堂」で有名かもしれません。
滞在時間はお昼前から夕方まで数時間ほどだったので、散策したのは観光客が良く行くルーアンの中心部のほんの一部です。
聖ジャンヌ・ダルク教会
まずはこちらの写真から。
この奇妙な屋根の建物は、実は教会でした。聖ジャンヌ・ダルク教会。
1979年に建てられたモダンなデザインの教会です。
ここはPlace du Vieux Marché「古い市場」と呼ばれている広場で、当日は日曜日でしたが、広場の屋根のあるスペースには店舗が軒を並べてました。
市場を通り抜けて教会の近くまで行くと、なにやら看板が。
よく見ると、
実はこの広場は、1431年5月30日ににジャンヌ・ダルクが火刑に処された場所だったんです。教会の入口には十字架が立ってました。
100年戦争の当時、ノルマンディーはイングランド国王の領地となっていたのです。
パリ解放の戦いの際に捕らえられたジャンヌ・ダルクはルーアンまで連れて来られ、ここで宗教裁判にかけられて、この場所で火刑に処されたということです。
捕らえたのはフランス国王に敵対しイングランド国王と同盟を結んでいたブルゴーニュ公軍。パリは当時ブルゴーニュ公の支配下にありました。
ちなみに、1450年にルーアンを取り戻したフランス国王のシャルル7世はジャンヌ・ダルクの宗教裁判の見直しを命じ、1456年には宗教裁判は判決は無効とされジャンヌ・ダルクの名誉は回復されたようです。そして時代が下って、1920年には聖人として認めれらているようです。
聖ジャンヌ・ダルク教会は、ジャンヌ・ダルクを聖女として敬い、フランスの英雄として讃えるために建てられたようですね。
中はこんな感じでした。明るくて広々としてますね。
ちなみに、ルーアンでは毎年5月30日に一番近い日曜日にジャンヌ・ダルク祭りが開かれるとか。
教会のある「古い市場」広場に面して並んでいたコロンバージュ造りの建物。
左側の建物はレストラン で、看板にはフランスで一番古い Aubergeとありました。
Aubergeオーベルジュというと有料で食事を提供する所、つまり食堂。1345年と書いてあります。百年戦争の時代。日本では室町時代の初期の南北朝の頃ですね。
ちなみに、このコロンバージュと呼ばれている木骨造りの建物は、このルーアンの中心街のいたるところに残っております。街全体がテーマパークのようなところです。
時計台とノートルダム大聖堂
聖ジャンヌ・ダルク教会のある広場から少し中心街方面に向かって歩くと、遠くに教会の高い塔と時計が見えてきます。
Gros-Horloge「大時計」と呼ばれているルネッサンス時代の時計台と、14世紀に造られたといわれている天体時計。ルーアンを象徴するモニュメントのようです。
近くで見ると、こんな感じ。
針は一本しかなく、ガイドブックによると、機械仕掛けになっていて、針がVIの位置にあるとき、正午になるとその曜日の神様が凱旋馬車に乗って出てくるらしいんですが。
そこから少し歩くと、大きな教会の建物。ルーアンのノートル・ダム大聖堂です。
12世紀半ば頃から今ある場所で建設が始まって、最終的に今ある形になったのが16世紀の初め頃のようです。気の長いはなしですが、石造りの建物だからできるんですね。それにしても素晴らしい装飾です!
ちなみに、Tour lanterneと呼ばれる外の光を内部に取り込むための採光塔 の先端まで151メートルあるらしいです。写真では真ん中にある天辺が矢じりのような形をした塔で、先端部分はフランス語でもflèche「矢じり」と呼ばれているようです。
大聖堂のすぐ横の通りは、古い建物の並ぶサン・ロマン通り。ピサロなどの画家の題材にもなった通りのようです。
この通りには、大聖堂の建物の一角に、ジャンヌ・ダルクに関する歴史博物館Historial Jeanne d'Arcもありました。
中庭にはこんな彫刻が。
通りの壁面にはこんな絵も。
こんな店も。
サン・ロマン通りを通り抜けると、別の教会が建物の合間から見えてきます。
サン・マクルー教会。15世紀から16世紀にかけて造られたとか。大聖堂に劣らぬ素晴らしいファサードです。
その脇のコロンバージュ造りの建物が立ち並ぶ通りを少し歩くと、建物と建物の間に空間があって通り抜けできるようになっている。
中に入っていくと、建物に囲まれた中庭に。
実はここはAître Saint-Maclouと呼ばれている墓地のようです。14世紀の半ばに発生したペストでこの地域の住人の四分の三の人が犠牲になったようですが、この墓地はその際に造られたもののようです。建物は16世紀の半ばのもので、墓は屋根の下に。
建物の入口はこんな感じ。
よく見ると、ドア横の柱にはドクロの彫刻。
中庭に入った際にどことなく暗くて薄気味悪い印象のところでした。
墓地を出て通りを先に進むと、黒山の人だかり。日曜日とあって市場と周辺のカフェに人が集まって来ていて、通りに溢れていたのです。
その広場から少し歩くと、水路の通りに出る。Rue Eau de Robec(ローベック水路通りとでも言うのでしょうか)という通りで、ここもコロンバージュ造りの古い建物が立ち並ぶ観光客に人気の場所のようです。
かつてこの水路の周辺には革職人がたくさん住んでいて、決してきれいな水路とは言えなかったようですが、現在は、環境対策がしっかりとされていて植物で水をろ過するエコな水路になっているようです。
この水路から少し歩くと、またしても大きな立派な教会が見えてきます。
Abbatiale Saint-Ouenと呼ばれる修道院のようです。
750年に創建されたノルマンディー地方ではかなり大きな力を持っていたベネディクト派の修道院だったようですね。修道院の一部でかつて修道士の宿舎のあった建物は現在市庁舎になっているとか。
ジャンヌ・ダルクはこの修道院で自らの信仰を否定するよう強いられて、それを受け入れさせられてしまったようですね。その結果、彼女は宗教裁判で有罪となり火刑に処されたということらしいです。
ルーアンの町はフランスの英雄ジャンヌ・ダルクと深い因縁のある町だったようです。
それでは、今回はこの辺で。
少し勉強になる旅も面白いですね。では、みなさんも Bon Voyage !!!
ロワール地方を訪ねて - ジャンヌ・ダルクゆかりの町シノンのシノン城 Château de Chinon
今日は、フランス語ツアーガイドのTokioです。
今回は、2月7日に訪れたロワール地方のジャンヌ・ダルクとフランソワ・ラブレーにゆかりのある町シノンのお城を少しご紹介します。
ロワール地方は日本でもお城で有名な観光地。この地方はかつて有力な王侯貴族の領地が多く、それだけに王族の居城も多く残っているようです。豪華なシャンボール城、優雅なシュノンソー城などは特に有名なところではないでしょうか。
シノン城もそんなお城のひとつ。
ガイドブックによると、シノンのお城の歴史は古く、5世紀には既に城砦ができていたとか。ロワール河から遠からず、ヴィエンヌ川流域を広く見渡せる高台は防御用の城砦を構える格好の場所だったのかもしれません。
現在残っているお城の骨格ができたのは11世紀から15世紀にかけてのようです。
シノン城には三つの「城」があるようで、Les Trois Châteaux と呼ばれているようです。高台の東側にあるサン・ジョルジュ城砦 Fort Saint-George と呼ばれている部分と、中心部にある「真ん中の城」Château du Milieu と、西側にあるクドゥレ城砦 Fort du Coudrayと呼ばれている部分。
お城見学の受付は東側の部分にありました。
このエリアには12世紀にイングランド王も兼ねていたヘンリー2世が居城を構えたとか。
ちなみにそのヘンリー2世は、イングランドの国王でもあり、フランスにもノルマンディー地方やボルドーなどがあるアキテーヌ地方、そしてシノンのあるアンジュー地方などの膨大な領地を領有していたようなんですね。
シノン城の入口。受付は門を入って右側に見える白い建物。
受付の入口です。
受付で入場料を払い、ガイドブックを受け取って見学開始。
ガイドブックは見学が終わったら受付に戻すことになってます。
受付を出ると、立派な塔と城壁が見えます。搭は「時計の塔」la tour de l'Horlogeと呼ばれているようですが、屋根の部分にある鐘楼に時計があるようで、それが名前の由来らしいです。
受付のある東側のエリアと「時計の塔」から先にある「真ん中の城」le Château du Milieuのエリアには橋が架かっていて、深い谷間で隔てられてます。
「時計の塔」は「真ん中の城」への入城門ということです。今の形になったのは14世紀のようですが、既に12世紀の終わり頃には門があったようです。
「時計の塔」とつながる城壁の角にある監視塔が見えてます。
その先にはシノンの葡萄畑。
門をくぐると、「王宮」les logis royaux と中庭が見えてきます。
左手に見えるのが王宮。右手に僅かに見えるのは「犬の塔」la tour des Chiensとよばれている12世紀の建物。シノン城がアンジュー公の隣人で宿敵のブロワ公に征服されていた時代に築かれたもののようです。
王宮を西側のエリアのクルドゥレ城砦側から見るとこんな感じ。
「真ん中の城」と西側のクルドゥレ城砦との間にも二つのエリアを隔てる深い谷が見える。
王宮の近くには、お城にまつわる歴史を紹介するパネルが置かれている。
近くで見ると、こんな具合です。
シノンの城砦が463年にローマ軍による包囲戦に持ちこたえた、とあります。
Les logis royauxと呼ばれる王宮が今の形になるのは15世紀のシャルル7世の頃。ジャンヌ・ダルクがフランスを救うために会いに来たフランスの国王です。
王宮の中も見学OK。
中はこんな感じです。
内部の空間にはスクリーンや展示物が置いてあり、スクリーンには当時の様子を再現した映像が流されています。ドキュメンタリー仕立てでじっくる見ると面白いかも。
ちなみにシャルル7世の部屋です。
王妃マリー・ダンジューの部屋はこんな具合です。
展示室になってます。冬場は結構寒そうな感じですね。
王宮の見学は一階から入って部屋を二つ見た後、石のらせん階段を上って二階へ行き、シャルル7世の部屋と王妃の部屋を巡ってまた一階に戻り、外に出るという順路です。
王宮の次は、ジャンヌ・ダルクがしばらく居住していたというクドゥレ塔 la tour de Coudrayへ。
王宮側から石の橋を渡った所にある石造りの塔。
中に入ると、
中は、やはり結構狭い。人が住むには少し狭すぎるような印象です。
天井の造りは、どこか教会の天井に似てるような気もしますが。
階段を降りてみると。
鉄格子の扉があり、先へは進めません。
身分の高い教会関係者の牢獄としても使われてたことがあるようですね、やっぱり。
ジャンヌ・ダルクもここでしばらく閉じ込められていたかもしれませんね。
一番上まで登ってみると。
やはり、眺めは抜群でした。ヴィエンヌ川を背にして眺めると、小高い丘陵一面に葡萄畑が広がってました。
近くには同じような円筒形の塔があと二つありますが、12世紀と13世紀に造られたもののようです。
クドゥレ塔から見たヴィエンヌ川の眺め。左手に見える円筒型の塔は「風車塔」。12世紀後半に造られたもの。
そうこうしているうちにヴィエンヌ川の彼方が夕陽に染まる時間。
見学時間は夕方5時まで。門は5時で閉まってしまいます。
ということで、簡単でしたがシノン城のご紹介でした。
それでは、皆さんも思い出に残る旅を。Bon Voyage !!!
ロワール地方を訪ねて - ジャンヌ・ダルクゆかりの町シノンChinonの中世の街並み散策
今日は、フランス語ツアーガイドのTokioです。
今回は、2月7日と8日の二日間滞在したロワール地方のシノンChinonの町を少しご紹介します。
シノン周辺のワインのドメーヌを見学するためにシノンを訪れたのは7日の朝。
当日は雪のため、午後見学を予定していたドメーヌからキャンセルの知らせが入り、ポッカリ時間が空いてしまったこともあり、午前中の見学が終わった12時頃から半日、シノンの中心街を散策することに。
シノンChinonの町には以前Toursにいた頃一度立ち寄ったような漠然とした記憶はあるものの、具体的には何も記憶に残ってなく、Tokioにとっては初めての町でした。
駅前のホテルでシノンの町の観光マップをもらって出発。
シノンの中心街は駅から歩いて10分程度。
ちなみにシノンの駅はこちら。
夜には照明が。
駅のすぐ前にはTokioが泊まったホテル、ベル・エポック Belle Epoque
朝の出発が早いときは、やはり駅前のホテルが便利。
歩いて10分程度で中心街の入口にある広場兼駐車場。
ジャンヌ・ダルク広場というようです。
ジャンヌ・ダルク広場 Place de Jeanne d'Arc
木曜日の7時から19時まで市場が開かれる、とパネルに書いてあります。
翌朝通りかかると確かに店が出てました。
翌朝のジャンヌ・ダルク広場。
ただしこの日は前日の雪がまだ残っていて、しかも早朝の気温が-6℃。市場の店舗がまばらなのは、路面凍結注意ありと、テレビのニュースで何度もアナウンスしていたためかも...通常はこんなものではないはずだと勝手に思ってましたが。
ご存じだと思いますが、ジャンヌ・ダルクは15世紀にフランスを救った英雄。
イングランドとフランスの間で王位継承などの問題がらみで14世紀から15世紀にかけて100年以上続いたいわゆる百年戦争。ジャンヌダルクは、1429年、イングランド同盟軍に包囲されていたロワール河沿いの町オルレアンの戦いで窮地に追い込まれていたフランス王軍を勝利に導き、その後のフランス王軍の勝利に大きく貢献した「オルレアンの処女 Pucelle d'Orléan」。
そのジャンヌ・ダルクが実はシノンにも立ち寄っていたということです。
それは1429年。オルレアンの戦いでフランスを勝利に導く前のこと。当時フランスはパリも含めて国土の半分くらいをイングランドとその同盟貴族に支配され、オルレアンの町もイングランド軍に包囲されてされていたので、フランス国王の王位継承権を主張していたシャルル6世の王子、のちのシャルル7世はシノンのお城に拠点を構えていたのです。
フランスを救えという神様の言葉を聞いたジャンヌ・ダルクは、フランスを救うため、国王になる前のシャルルを訪ねてシノンにやって来たようです。ジャンヌがオルレアンの戦いでフランスを勝利に導く前のこと。
ジャンヌ・ダルク広場からヴィエンヌ川沿いに少し歩くと、川岸に今度は別の銅像がみえてくる。
「ガルガンチュア物語」で有名なフランソワ・ラブレーの銅像でした。
ヴィエンヌ川沿いの岸辺に立つフランソワ・ラブレーの銅像
フランソワ・ラブレーは16世紀に活躍したフランスの作家。有名な作品は「ガルガンチュア物語」と「パンタグリュエル物語」。不勉強のTokioは読んだことはないけど、名前くらいは知ってます。シノンの近くで生まれたようです。ということで、町の中心部の目立つところに銅像ということでしょう。
そのすぐ近くの広場にはシノンの市庁舎。フランス国旗とEUの旗が見えます。
中世の建物が残る街並みはそこからすぐ。
その街並みはこんな感じです。
コロンバージュと呼ばれる木骨造りの家。
そして目立つのが白っぽい石造りの建物。
白い石はチュフォーTuffautと呼ばれている石灰石。チュフォーの洞窟は、ワインの天然の熟成庫として利用されることも。軽くて加工しやすいので、ロワール地方ではお城などの建物によく使われていた石材のようです。
建物の合間から見え隠れするのはシノンのお城の搭。
ジャンヌダルクが馬から降りるとき、足を下ろした場所といわれていることろがあります。
この家の軒先に井戸があって、馬から降りようとしたジャンヌがその井戸の淵に足を下ろしたとか。
家の壁に貼られたパネルに説明書きが。ジャンヌが馬から足を下ろしたのは1429年3月6日のようです。
また、ラブレーの家が建っていたという場所。石垣にパネルがあります。
中世の街並みの建物にはこのような歴史を物語るパネルがあちこちに貼られてました。
お城は中世の街並みのすぐそばの高台の上にあり、ジャンヌダルクの井戸の家の前の坂道を登っていけば5分とかかならい。
ジャンヌ・ダルク通りと呼ばれているこの坂道はからお城はもう直ぐそこ。
お城はまたこの次にして、中世の街並みの細い石畳の道を少し進むと、お城のある高台の岩肌に洞窟の天然ワインセラー。
チュフォーの岩盤をくりぬいてつくられたワインセラー。
観光客向けに営業しているようですが、当日は休日でした。
中世の街並みの細い石畳の道はものの15分もあれば端から端まで通り抜けられる。
ここまで来るともうヴィエンヌ川が見えてくる。
ホテルで教えてもらったシノン城の写真スポットはヴィエンヌ川の対岸にある。
ラブレーの銅像のそばにかかっている橋「Pont de Chinon」を渡って対岸へ。
確かにそこはシノン城とシノンの中心街が一望できる絶好の場所。
シャルル7世と王妃が住んでいたという黒い屋根の館。
その右側に見える円筒形の搭はジャンヌダルクが、沙汰の出るまでしばらくいたというクドゥレ搭 le donjon de Coudrayも見えます。
シノンの街が王冠をかぶっているような感じ。
当日は対岸の河原に雪がたくさん残っていて、誰かが作った雪だるまが。
フランス人の作る雪だるまには耳があった。
ということで、中心街だけ散策すると2時間くらいで周れてしまうシノンの町でした。
ちなみにシノンのMAPはこちら。
それでは、皆様も良い旅を。Bon Voyage !!!
ロワール地方のワインのドメーヌを訪ねて - シノンChinonのドメーヌ・デュ・コロンビエDomaine du Colombier
今日は、フランス語ツアーガイドのTokioです。
今日は、2月8日に訪れたシノンのドメーヌ、ドメーヌ・ドゥ・コロンビエ Domaine du Colombierをご紹介します。
Google Map を見ると、シノンの町とロワール河の間にあって、シノンの中心街から7kmほど、自転車だと20分程度の所。AOC Chinonの葡萄畑の広がるエリアということです。
このドメーヌは前日の午後見学する予定だった所。
前日はドメーヌのアニーさんが車でシノンの駅まで迎えに来てくれることになってたのですが、生憎の雪で道路事情が悪く、迎えに来れなくなったため、見学もャンセルとなったドメーヌ。
この日は、シノンから自転車でブルゲイユまで行って、ブルゲイユ近くのシャトーを見学した後、少し時間的な余裕があったので、シノンに戻る途中に、急遽アポなしで立ち寄ってみることにしたものです。
シノンとブルゲイユを結ぶ幹線道路、県道749号線から外れて、Google Mapを頼りに人家のまばらな曲がりくねった農道を7,8分進むと、看板が見えてくる。
門まで出迎えてくれたのは獰猛そうな2匹の猟犬。吠えながらこちらに向かってくるのを見ると、マジでヤバそうだった。足元にまとわりついてくる。
中庭の奥の建物の中から男性の声が。
事情を説明すると、前日来る予定だったのは知ってたということで、快く見学させてくれた。
ドメーヌ・デュ・コロンビエのオリビエOlivierさん
まず案内されたのがワインを醸造する作業場。部屋の壁面に赤い色のコンクリート製のタンクが並んでいる。へー、コンクリートのタンクを使ってるんだ。と思ったら、次の部屋はステンレスタンクでいっぱいだった。
コンクリート製の赤い醸造タンク
醸造所の次は、ブティックに隣接する別の作業場。
そこでは、ボトルの口にカプセルをかぶせる機械などが数台置いてある。
Olivierさんの葡萄畑は24ヘクタール。Olivierさん含めて4人で作業しているそうです。こちらの葡萄の栽培はビオではないようです。
Tokioが急遽ここを訪問したのは午後4時半近く。
他の皆さんは出払っていて、Olivierさんが一人で留守番役。
貯蔵蔵の方までは行けないということで見学は終了して、ブティックでデギュスタシオン。
ドメーヌ・デュ・コロンビエのワインのラインアップ
5時半までにはシノンに戻って自転車を戻さなければと思っていたので、時間の余裕もなく、デギュスタシオンさせていただいたのは4種類。
それがこちら。
右から順番に、粘土石灰質の土壌の特定の区画の葡萄畑の樹齢30年ほどの葡萄の木から栽培された葡萄のみで造られた2015年のワイン、樹齢50年ほどの古い葡萄の木から栽培された葡萄で造られた2014年のワイン、2013年と2016年のドメーヌの通常のワイン。葡萄はいずれももちろんカベルネ・フラン。
特に最初の二つのワインは香りと味わいにとても凝縮感があって、しかもシルキーななめらかさが心地よい。今飲んでももちろん美味しいし、まだ数年熟成させても良いらしい。
午前中に訪れたブルゲイユの「シャトー」でも感じましたが、こちらのドメーヌでもロワール地方の赤ワインの奥深さを実感させていただきました。
ロワール地方といっても、産地呼称は、シノンがAOC Chinonで、ブルゲイユがAOC Bourgueilということで、違いますが、葡萄の品種はどちらも赤ワインはカベルネ・フランCabernet Francのみ。葡萄の品種とロワール地方のテロワールと生産者のこだわりのマッチングの結実ということなんでしょうね。
ドメーヌに来ないと味わえないかもしれない印象かもしれません。
最初にデギュスタシオンさせて頂いたワインを一本お土産に持って帰ることに。
このドメーヌのアニーさんはパリ近郊のアントニーでTokioがお世話になっているリアンさんの知り合いで、Tokioはリアンさんからこのドメーヌを紹介してもらったので、お礼に手土産でも持って帰ろうということでした。
値段はなんと7ユーロちょっと! 日本で買うとどれ位するんだろう、と思わず考えてしまう。
ちなみに、Olivierさんのドメーヌのワインは日本には輸出してないようです。
ドメーヌ・デュ・コロンビエ Domaine du Colombierのホームページはこちら↓
Accueil - Domaine du colombier
見学を終了し、Olivierさんにお礼を言ってドメーヌを出たのは5時過ぎ。
どんなに遅くなっても、最悪貸自転車屋が閉まる6時までにはシノンに戻れるだろう、とは思いながらも、ペダルのピッチを速める。
一日中良く晴れていたため、路肩の雪はほとんどなくなっていた。
幹線道路である県道749号線に戻り、15分ほどでヴィエンヌ川の見える所まで来る。後は川沿いに進むだけ。
程なく、高台にシノンのお城の一部が見える。
シノンに来て二日目だけど、自転車で一日遠出して戻ってきてお城が見えると、妙な懐かしさのような安心感のようなものを覚える。中心街まであと少し。
貸自転車屋に到着したのは5時半頃。
店に入ると、ジャン・フランソワさんが、よく無事で戻ってきた、と言わんばかりに迎えてくれた。朝、店を出発する時に見送ってくれた貸自転車屋のご主人だ。日本人客を見送ってから7時間が経っていた。
e-Follow meのジャン・フランソワ・ロッシュさん
ちなみにジャン・フランソワさんの店ではセグウェイの販売もしているようです。
ホームページはこちら↓
自転車を戻した後、向かったのはヴィエンヌ川の対岸。
夕日に映えるシノンのお城の写真を撮っておこうと思ったのでした。
その写真がこちら。
そして、もう一枚。これは町の中心街側の岸辺から撮ったもの。
ちなみにこの日の朝撮った写真がこちら。ヴィエンヌ川の岸辺からのもの。
朝霧に霞んで見える橋のたもとの白い建物。
そして城壁の周りに白い雪が残るシノンのお城。
シノンは「ガルガンチュア物語」で有名なフランソワ・ラブレーの町。
そしてフランスの英雄、ジャンヌ・ダルクにゆかりのある印象的な町でした。
シノンについてはまた別の記事でご紹介します。
それでは、この辺で。皆さんも、心に残る旅を。Bon Voyage !!!
ロワール地方のワインのドメーヌを訪ねて ブルゲイユ Bourgueil - Château de Minière
今日は、フランス語ツアーガイドのTokioです。
今日は、2月8日に訪問したブルゲイユBourgueilのシャトー・ドゥ・ミニエール Château de Minièreを紹介します。
ブルゲイユはシノンと同様、ロワール河流域のワインの産地で、特にカベルネ・フランの赤ワインで知られていて、是非とも行ってみたいと思っていたところ。午前と午後一か所ずつ訪問の予定にしてたところ、前日の雪で予定が狂ってしまう。
8日の早朝、気温が-6℃まで下がり、路面の凍結が心配されたこともあり、テレビでは車での外出を避けるよう注意を促していた。ホテルから出てみると、ヴィエンヌ川の川辺は靄で霞んで幻想的な風景になっていた。
靄にかすむヴィエンヌ川の岸辺
霧にかすむシノンの町
自転車でのブルゲイユ行をためらっていると、10時半頃、午後訪問を予定していたドメーヌからメールが入る。シノンからブルゲイユに通じる道路は、雪の心配はない、という。メールの差出人はFlorineという人。朝、シノンンからドメーヌまで車で行ったようだ。
メールのお蔭で迷いが吹っ切れた。思い切ってブルゲイユまで自転車で行ってみることにする。せっかくここまで来たので、行けるところまで行ってみよう、ということ。
シノンの中心街にある貸し自転車屋で自転車を借りて、シノンを出発。
シノンとブルゲイユを結ぶ幹線道路、県道749号線に沿って行くだけ。D749の標識に沿って行けばよいので、初めての道でも心配はいりません。
Florineさんからのメールにあったように、車道には雪がなくなっていた。車道を走ってる限り雪の心配はなさそう。
20分ほどで、シノンの町を出る。
そして、さらに20分ほど走ると、シノンの町から見えていた3本の大きな白い煙の正体がはっきりした。原発だった。
原発のすぐ傍を通り過ぎ、そしてさらに行くとロワール河にかかる橋。
らい
''Pêche interdite''の看板。ロワール河では釣りは禁止のようです
シノンから出発して1時間15分程で、なんとか無事にブルゲイユの町にたどり着く。
ブルゲイユは意外と小さな町だった。
町の中心エリアに市庁舎、教会、市場がありその周辺にパン屋などの商店。
自転車で5分も走ると町の中心部を端から端まで通り抜けできてしまう。
Google Mapによると訪問予定の「シャトー」はブルゲイユの中心街からさらに自転車で30分ほど。
町を出ると一面ブルゲイユの葡萄畑が広がる。
途中、どこのドメーヌか知らないが、葡萄畑の真ん中に小屋。そのそばに馬が。
葡萄畑の耕作用の馬に違いない。トラクターではなくて馬で葡萄畑を耕すワイン生産者もいるのは以前テレビで見たことがある。ビオディナミの生産者かもしれない。
1時前に「シャトー」に到着。「シャトー」の看板が道路脇に立ててあるので分かりやすい。観光客も結構やってくるのかも。独立系の生産者はワインを直接消費者にも販売するので、集客のためにeounotourismeと呼ばれているドメーヌやシャトーの見学ツアーを企画している所も多いようです。
独立系のワイン生産者は直接消費者にワインを販売しているので、集客のために、eounotourismeと呼ばれている見学ツアーを企画することろも多いようです。民宿のような宿泊設備も整っているところもあり。
シャトーに着いてブティックに入ると、出迎えてくれたのは若い女性。
メールをくれたFlorineさんだった。
シノンに住んでいて、車で職場のシャトー通まで通っているそうだ。
シャトーを自由に見学して良いらしい。シャトーのマップと説明書を渡されて自由見学。マップには見学の順路も書いてある。見学が終わったらブティックに戻り、ワインのテイスティングということのようだ。
どうやらこの「シャトー」には古い歴史があるようです。
15世紀には農家だったようですが、現在のような「シャトー」になったのは16世紀の頃とか。農家の頃の建物などもまだ大切に残されていました。
15世紀の建物の一部が残るシャトー
何回か所有者が変わったようで、現在はヴァン・デン・ヴェルゲさん一家。ベルギーの方のようです。2010年にシャトーを買い取って、大切に育てているということです。葡萄は、農薬を使わない有機栽培。Vins Biosです。硫黄の使用も最小限とか。
16ヘクタールの葡萄畑の一部がシャトーの敷地にあります。
敷地には大きな木も。
一通りシャトーを見学して、ブティックでテイスティングタイム。
Florineさんの解説でシャトーのワインを一通り味わうことができました。
産地呼称AOCブルゲイユのワインはカベルネフランから造られる赤ワインとロゼワインのみですが、このシャトーでは、ロワール地方の白ワインの品種シュナンから造られた白ワイン、カベルネ・フランのロゼのスパークリングワイン。そして珍しいのは赤ワインのスパークリングワインまでありました。赤のスパークリングワインは初めて。
なによりも驚いたのは樹齢の古い葡萄の木から造られた赤ワイン。
樹齢50年ものと樹齢100年ものがあり、いずれもボルドーの赤ワインのような凝縮感のあるワインでした。Tokioが勝手に描いていたロワール地方の軽くて早飲みの赤ワインのイメージが全く変わってしまうワインでした。
樹齢50年前後の古い葡萄の木から造られた赤ワイン
樹齢100年もの ’Vignes Centenaires' のラベル。
にちなみに樹齢50年もののワインの裏側のラベルはこんな感じです。
フランスで買うと20ユーロ程度。
Château de Minière のワインは日本へも輸出されているようです。
機会があったら是非飲んでみてください。
Château de Minièreのホームページはこちらです。
Bienvenue au Château de Minière
テイスティングで解説をしてくれたFlorineさん、ありがとうございました。
それでは今回はこの辺で。
皆さんも、楽しい旅を。Bon Voyage !!!